御書と師弟 第8回 如我等無異と報恩

今回拝された御文は、

我等具縛の凡夫 忽に教主釈尊と功徳ひとし 彼の功徳を全体うけとる故なり 教に云わく「如我等無異」等云々
(日妙聖人御書、P1215)

です。ここから、御指導を書き綴ります。

 牧口先生と戸田先生は、三類の強敵と戦い抜かれ、広宣流布の指揮を執られるご境涯において、一体不二であられました。
 弟子を自分と同じ境涯に、いな、自分以上の立派な人間に育てたい―。これが師の願いです。

自分以上の立派な人間に育てたい、そうした師匠がいらっしゃる、そのことに感謝致します。

その師の期待に、何としてもお答えするのだ―そう一念を定めて、祈り戦う弟子の生命には、師と等しい力が湧き出てきます。この「師弟不二」こそ、仏法の根幹です。

自分以上の立派な人間に育てたいとの師の期待に、お答えしようと腹を決めて祈り戦う中で、「師弟不二」になると仰せです。

その後、冒頭の御文の通解、如我等無異の解説に話は移ります。

煩悩に縛られた我等凡夫は忽ちの内に教主釈尊と等しい功徳を受けることができるのです。それは、釈尊の功徳の全体を受け取るからです。経文に「如我等無異」とある通りです―。

苦悩多き凡夫である私たちが、妙法の功力によって、そのまま仏の大生命を我が身に輝かせていける。最高にありがたい、御本仏の大慈悲の法門です。

仏の境涯に高める


 ここに仰せの「如我等無異」とは、法華経方便品第2の経文です。「我が如く等しくして異なること無からしめん」(法華経P130)と読みます。
 釈尊が、弟子たちを自身と全く等しい仏の境涯に高めるという誓願を果たされた、と言う金言であります。
 大聖人は"この経文にある通り、教主釈尊とおなじ功徳を受けられるのですよ、だから安心してきって信心に励んでいきなさい"と日妙聖人を力強く励ましておられるのです。


 「如我等無異」という思想は、古今東西の思想・宗教の中でも、まことに革命的な人間主義の大哲理です。万人を皆、仏と等しい存在に高めていく―そう宣言しきれる教えが、他にどこにあるでしょうか。
 大事なのは、民衆です。民衆は目的です。手段ではない。その民衆を利用しようとするのが、権力の魔性です。相ではなく、民衆を目的とし、すべてを、民衆の幸福のために、民衆奉仕の方向へ持っていくのが、仏法の心です。そのための究極の力が「如我等無異」の妙法なのです。

真摯に受け止め、これから研鑽して参ります。

人類の希望の法理


 「如我等無異」の根本には、「師弟不二」の精神があります。この師弟の精神が忘れ去られてしまえば、仏は民衆と隔絶した特別な存在へと権威化されてしまう。インドから中国、日本へと流布するうちに、真の仏教が衰退していった一因もここにあります。法華経の真髄を行ずる日蓮仏法は、こうした宗教史の宿命を打破する希望の法理であります。


 戸田先生は言われました。
 「御本尊と大聖人と自分自身とが区別がないと信じて、そのありがたさを心にしみて感謝申し上げながら、題目を唱えてゆくことです。その時、宇宙のリズムと我がリズムは調和し、宇宙の大生命が我が生命と連なり、偉大な生命力が湧現してくるのです」


 戸田先生は「強盛に信行学に励めば、いつまでも悩める凡夫でいるわけがない」とも指導されておりました。創価の友は、必ず仏に等しい生命の光を放っていけるのです。
 ところで、この「如我等無異」という極理の中の極理の法門が、日妙聖人という女性門下に説かれた意義は誠に大きい。
 当時の日本では、女性は宿業深い身とされていました。その女性の弟子に対して、大聖人は「日妙聖人」と最上の称号を贈られ、そして、"あなたは偉大な仏と同じ境涯を開けるのです"と説かれたのです。この御金言は、先駆的な女性尊重・女性解放の人権宣言とも拝せましょう。・

当時の時代背景を考えれば、大聖人様の人権意識に驚かされます。
ここで、身体に刻みつけたいお言葉は、
『御本尊と大聖人と自分自身とが区別がないと信じて、そのありがたさを心にしみて感謝申し上げながら、題目を唱えてゆくことです。その時、宇宙のリズムと我がリズムは調和し、宇宙の大生命が我が生命と連なり、偉大な生命力が湧現してくるのです』『強盛に信行学に励めば、いつまでも悩める凡夫でいるわけがない』

師匠と苦楽を共に

 「御義口伝」には、「共とは如我等無異なり」(御書P734)と説かれています。"師と共に"戦う中に、、「如我等無異」の境涯が実現します。
 師匠と「功徳ひとし」の大境涯に至るためには、師匠と苦楽を共にし、あらゆゆ艱難を勝ち越えゆくことです。
 牧口先生は言われました。
 「私の言ったことが心でわかれば、口にも出るし、筆記もできる。行動にも出る。身・口・意の三業でわかることが、本当にわかったということになるのだ」
 その通りに戸田先生は、牧口先生の教えを「死身弘法」の大精神で実行し抜いておられた。
「弟子は弟子の道を守らねばならぬ。ことばも、実行も、先生の教えも、身に顕現しなければならない」と語っておられました。これが本当の師弟です。
 私もまた、戸田先生の事業が最悪の苦境にあった時、一心になげうって先生をお護り申し上げました。ただただ、先生に、全人類のための指揮を悠然と執っていただきたい!その一心で、阿修羅の如く祈り、戦い抜いたのであります。
 戸田先生は、日蓮仏法を身で読まれ、体現された行者であられる。故に、先生に命を捧げる覚悟で戦うことこそ、仏法の奥義を極めゆく正道である。私はこう決めきって、若き生命を完全燃焼させました。
 今日に至る広宣流布の多くの重要な構想を広げていったのも、苦闘の中での2人の語らいでした。
 艱難辛苦を共にした師弟不二の一日、また一日、私は先生の境涯の奥の奥まで教えていただいたのです。この大恩に感謝は尽きません。

心に残ったお言葉は、『弟子は弟子の道を守らねばならぬ。ことばも、実行も、先生の教えも、身に顕現しなければならない』『私の言ったことが心でわかれば、口にも出るし、筆記もできる。行動にも出る。身・口・意の三業でわかることが、本当にわかったということになるのだ』身に刻んで参りたい。

感謝の弟子が勝利


 仏法の命脈は「師弟」の精神にある。
 「如我等無異」という誓願は、仏1人では完成しないのです。師の教えを聞いた弟子たちが、どれだけ深い感謝と決意をもって、師恩に報いる行動を開始しゆくか。ここで決まる。弟子の心に「報恩」の炎なくして、「師弟」の道は絶対に成就しません。
 「師弟感応して受け取る時如我等無異と悟を悟仏知見と云うなり」(御書P717)とも仰せです。
 「弟子の勝利」こそ「師匠の勝利」です。創価の師弟が、「仏と等しい」智慧と力で戦ってきたからこそ、日本、そして世界の広宣流布を成し遂げることができたのです。
 大聖人は「恩を知るのを人間と名づけ、知らないのを畜生とする」(同P491,趣意)と厳しく戒められておられます。

何としても、断固勝利を。勇気を頂きました。

 我も師子

  君も師子たれ

   師弟不二

この中にしか、師弟はないと、改めて感じました。



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