戸田先生の悟達について、思索

今日、これから書く内容は、とても主観的なことであり、言葉だけで表現し得ない世界であり、更に言えば、私自身そうした境地になれたこともありません。しかし、これはとても大事な事であると考えました。そこで、拙い文ながら、書くことと致します。

粛板592-598
関連レスは、
粛板603,粛板606,粛板614-616

ここでの一連のレスを要約すると、
己の限界を遥かに超えて、祈りと行動で徹底的に先生に肉薄していったその時にだけ「仏界湧現は起こる」こと。
「思えない」時は、正直に「そう思える自分にさせてください」と祈る事から始まる。
何かの悩みがあって、それを解決したいがために唱える題目や祈りの中では、「仏界湧現」はないこと。
そして、誰から批判を受けても、その『実感』は消えることはない。ゆえに、どれだけ苦しくなっても、必ず祈りから始めることができ、師匠と呼吸を合わせ共に戦って行ける。
信心を貫く事とは、師弟不二であり、どこまでも師を求める姿勢が、祈りとなり、そうした体験を得る。
煩悩即菩提の即とは、師弟不二の一念と実践の異名。
に行き着くと思います。


何度も読み返す中で、自分の言葉で書けない事を痛感致しました。論理を追求する中で、最も主観で語らざるを得ない事であり、そうした体験がまだないことに起因しているのだと思います。


人間革命では、戸田先生が太平洋戦争中、巣鴨拘置所で、御本尊様が無い中祈り抜いて、仏とは生命なりと悟達し、地涌の菩薩の大使命を覚知した体験は、法華経を御書を理解したいとの求道心と、戸田先生の師匠であった牧口先生の安否を気づかわれ、求め抜いたから、そうした確信に至ったと思うのです。


今日より、これまで以上に求め抜いて参りたい!!



にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ