沖浦克治氏にまつわる一連の騒動について8

なぜ、どうして、沖浦克治氏が、ここまで、外れた言動をとるのか、考察してみました。

通常、私達が「御本尊様」」と言うときは「曼荼羅本尊」です。
「法」そのものです。「法」をそのまま図顕した「もの」ですから。
当然、曼荼羅本尊には「物体」としての「寿命」は、あります。
しかし、「法」そのものは永遠です。
このあたりが、沖浦克治氏の場合「混乱」しているのではないでしょうか?

その「混乱」が、今度は宗門の連中との「法論」で、あまりにも宗門側が「戒壇様」を強調するので、宗門と学会の差異をつけるためにも「法」そのものを強調するしかないとの、氏の「論理」が形成されていったと考えることができると思うのです。

創価学会が目指してきたことの1つは、「広宣流布のための信心」であります。
日顕宗こと、日蓮正宗は、創価学会を破門にしたことで、これが消えたと思うのです。

ですので、「戒壇様」といわれる「大御本尊様」そのものに何か宗門問題の原因がある訳ではないですね。

過去の不祥事*1を契機に、反省して「発心」したまでは良かったと思うのですよ。「自分の出世の本懐は、ある演出家を世に出すことであり、熱原公演である」という内容のことを以前仰っていた時がございました。出世の本懐が「熱原公演」では、目標が違いますね。

あたかも、間違った宗教を「本気」で「真剣」にやっている姿です。

出世の本懐が「熱原公演」と解釈ができる理由は、ここからです。
また、戸田先生の言葉も取捨選択と述べ、真に師匠と思ってはいないことを以前書きましたが、「本当の人生の師匠」は、演出家の田山翔一氏と考えることできます(そこから、師匠を間違えたのが、全ての根本的原因と解釈することも可能であると思います)。

創価学会非公式非公認板2 ☆ハートフルシアターフレンズを語ろう☆--1--より

57 :沖浦克治:2008/09/25(木) 19:20:35 id:AJ3hr85o0
 ●●さん

 田山先生は、池田先生が、

 『うちに天才が現れた。』

 と、言われた方です。
 演出の天才なんです。
 私はこの世でただ一人頭の上がらない人何です。

73 :沖浦克治:2008/10/01(水) 09:04:45 id:AJ3hr85o0
 熱原の三烈士の舞台公演は、田山翔が30年ほど前(中略)

池田先生が勇退された時については、物事を「全体観」で見るということが、欠如しております。
氏はあの時、学会から宗門を切るべきだったと、主張したと述べております。
その主張が受け入れら無いので、一旦、学会から去ったとも述べております。
その時、演出家だけは、自分の信念を貫いたとも述べております。
その演出家を護ることが、氏自身も信念を貫くことになると述べております。
その思いを30年間暖めてきて、今やっと開花できるようになったと述べております。

これらの言動から、全ての、根本原因は、師匠を間違えたことと捉えることができるのではないでしょうか?


PS:この文を作成にあたり、お世話になった、学会系BBSにおける言論人たるもくれんさんに感謝申し上げます。


2008.12.17PS:このレスからも、引きたいと思います。

沖浦さんの誤謬をガンガン破折スレ - 創価仏法研鑚掲示板より引用

123 :もくれん:2008/10/09(木) 16:14:08
(省略)
「一切衆生が本来・仏」と知っているのは、我々親子のみであると、本気で思い込んでいるのです。
つまり、例のスローガンを肯定してくれないと・・・
「一切衆生が本来・仏」を否定したと、断定を下すのです。
これを、本気で思い込んでいるのですね。
創価学会員多しといえど、「我々親子のみの特許」と本気で
思い込んでいるのですね。

その「精神」の中身はというと、あまり書きたくないのですが、おぞましくて、
本当は池田先生を「信用」していないのでは ?? 

それが、「根源的な原因」と推測します。
勿論、口では「池田先生が好きなんです」とか、あの54年、先生を見捨てた者どもを、許せない・・と 、言っていますが。

彼の「師匠」は例の演出家の方では?
池田先生を「人生の師」「広宣流布の師匠」として、認識していないのでは?
と、以前からうすうす感じていました。

本当に師匠として、求めていれば、著書を歪曲した「読み方」はしません。

私自身の遍歴でも、ありますが、友人から折伏されて入会しますね。
「御本尊様」は素晴らしい、ここまではすぐ納得できますが、広宣流布を、自発的に意識し出してからでないと、周囲の皆さんが「先生」「先生」と呼んでいるのが、理解・納得できませんでした。

創価学会員であって、なまじ御本尊対自分で「体験」のある者が池田先生を師匠としないで、進むと「あらぬ方向」へ、行くと思います。
根本を見失うと思うのです。

今までの最高幹部クラスで堕落した人間は、究極的には「師匠」と
定め切れなかったのではと、推測します。
勿論、本人は「先生」「先生」と常に連呼して、「そのつもり」であったと思いますよ。
いざという「究極的な場面」で、師匠への迷いが「僅かだけでも」あったのでは?

広宣流布への誓願がなければ、「師匠」と見られませんから。
ただ「名誉会長」としてしか、認識できないですから。

130 :プリン:2008/10/10(金) 01:01:54

>>123
(省略)
◆「精神」の中身、池田先生への捉え方の問題性のご指摘ですが……、これは全くもってビンゴ!だと思いますよ。
私も(多くの方も?)「うすうす感じて」いたことです。

(省略)

ちなみに、矢野の本質についてある方(大関西の草創期からの婦人部)が……、
「結局、池田先生を“心の底から”尊敬しているかどうかなんだ!」
と指摘されたと伺い、大いに納得いたしました。

スレ
135 :もくれん:2008/10/10(金) 12:45:28
(省略)
反逆者の池田先生に対する姿勢については、その関西の幹部のお話の通りですね。

堅い表現になりますが(このへんが男性っぽいのかな)

先生に対する姿勢の件ですが、
広宣流布、もっと具体的に言えば、人類全体に対する責任感の欠如が
根底にあるが故に、先生を心底、師匠として、求められないのと思います。
広宣流布をしようとすれば、いやでも、池田先生を求めずにはできません。

広宣流布を我生涯の最優先事項と心が定まっていなかったからですね。
矢野某は、「蓄財」が人生の最優先事項になってしまったのですね。
すべて、戒めとして、受け止めていきたいと思います。

参考資料:説教オヤジ・大いに語る - けんちゃん・ぎかんちゃん(淫尊・旧名)


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*1:神戸市市役所の仕事を休んでスキーの大会に出て、仕事を辞めることになったこと