反省多し、ブルックナーに浸る,今日もまた勝負!!

午後から、行ってきた。反省は、3点。悔しい、凹んだ。というわけで、そのことは、何人かに話し、スッキリさせると共に、明日は、同じミスはしないと誓う。唱題も、40分クリアした。


今夜は、ブルックナー交響曲第7-9番を、一挙に聴く。第7番は、初演から人気があったブルックナーの唯一の交響曲。第1楽章・第4楽章のメロディがいい。ただ、それだけかな、個人的には、金管の使い方と、第2楽章・第3楽章は、第8番の方が数段良い。聴いた演奏は、アーノンクール指揮、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団演奏のCD。第9番は、指揮・演奏は、第7番と同じ。この曲は、「愛する神へ」へ捧げるつもりで作曲され、第4楽章が、未完。キリスト教音楽に共通するフレーズが多々あるようです。この曲、無調になっていて、悲痛。第3楽章のアダージョは、それなりに、美しいです。
今回聴いた第8番は、第2次世界大戦中に、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーがウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮した録音。この指揮者は、楽譜でテンポの速く指定されているところは、かなりテンポを速め、テンポが遅く指定されているところは、かなりテンポを遅くするのですが、それがピタリとはまってとてもいい。フィナーレは、流石に速すぎるものの。演奏時間が、平均80分越えの曲の中、わずか75分。マーラーヴェーベルンと同じく、本業は作曲であり、指揮は副業と考えていたフルトヴェングラーフルトヴェングラーが作曲した交響曲は、ブルックナーをさらに長大にし、マーラーシベリウスの影響を受けた作風。フルトヴェングラーは、ブルックナーをこう、捉えていました。

第8番では、改竄版を含めると4種類。これは、後で出てくる原点版という言葉が登場する背景として、記憶に留めて下さい。

ブルックナー交響曲の原点版について、その価値を強調し、ブルックナーの音楽の持つ精神的内容の充実していることを述べた。「この音楽の言葉の敬虔さ、深さ、純粋さは、一度体験したことのある人にとっては、もはやそれから逃れることのできぬものである」。「彼は、音楽家ではなかった。この音楽家は、真実は、ドイツ神秘家の末裔であった」。「ブルックナーの音楽は聴者が完全に帰依し、無我の境に入ることを期待し、要求する」。「ブルックナーの持つ力強く素朴なものと高い精神性の混合はドイツの音楽家に珍しいものではない。ブルックナーはその点、シューベルトベートーヴェンなどを先輩としている」。「ブルックナーの芸術はまさに超時間的なものをしこうしているゆえに、現代的なのである」。「彼は今日のために作曲したのではない。彼はその芸術において永遠のことを考え、永遠のために作曲した。それゆえ彼は大音楽家のうちでも最も多く誤解される人となった」。


ブルックナー 交響曲第8番(ハース版) ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団演奏 1944年 ドイツグラモフォン 解説 フルトヴェングラーブルックナー 渡辺護著 より抜粋】

ブルックナーは、もともと、農民の生まれ。それゆえか、その悠然とした音の動きに、中世からの悠然とした息吹を感じ、オーストリアバイエルンの自然を想起させるものがあります。躍動感やヴァーグナーにも通じる野暮ったさは、畑を耕していた者の、末裔であることを、感じさせる。あまりにも、雄大かつ悠然。バッハのようなアクロバットなメロディとメロディの重なり。そのさまは、ゴシック様式の教会のように、重厚長大。豪華絢爛ではなく、質実剛健。曲も、長すぎるので、好き嫌いがとても分かれる曲。ヴァーグナーの曲と同じく、突然、夢中になる時がある。恍惚感に包まれ、そのハーモニーに圧倒される。私は、カール・ベーム指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団演奏でその境地に到達し、離れた時期もありながら、今に至ります。絶望に苛まされた時、自信と闘志を与え、ひたむきな気持ちを与えてくれる。自然への讃歌、絶対的な法則への讃歌!!
原点版に、ハース版、ノヴァーク版の2種類あり、その違いをきちんと理解できました。ハース版は、ノヴァーク版から、最初に作った版のフレーズを、再挿入したもので、個人的には、そうした再挿入をすること自体が、無駄ではないか、と考えています。


落ち込んではいられない。なぜなら今日も、勝負なのだから。今日も一歩前進!!



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