佐村河内守作品別人作に思う 3

昨日も1日で1万前後ページビューが上がっていた。一瞬だと思うが、最盛期の創価王道と比べても、伸びが異常である。
帰宅後、コメント返し、リツィート、はてブ、よそのブログへの出向していたらもうこの時間である。

会見内容を見て思うことは、それらが事実である場合、佐村河内氏は、オリンピックに影響が出ていることはさることながら、ヴィーンフィルのコンマスこと、ライナー・キュッテル氏をはじめ世界に与えている影響を踏まえ、厳重に罰せられるべきというのが、個人的な考えである。
また、それが事実であれば、反社会性パーソナリティー障害の可能性があると考えている。
さらに、自己愛性、演戯性もあるように思えてくる。
おそらくプロデューサー、ディレクター、俳優であれば大成しそうなタイプに思えてくる。

POPSでいうプロデューサー、コンポ―サーの関係であれば問題ない形。しかし、企画書のようなプロットを提示して、仕事を振るだけであったこと。更には「吹奏楽のための小品」のプロットの提示がなされていなかったと言うプロデューサー失格な作品があること等、共同制作とは言えないとの声は多い。
私は、新垣氏の作品と評価するのはありという立場。ただ、正反対の考えはもちろん見ているし、それは今後の進展なしには、何とも言えないところがある。

作品は消えるべきという意見も目にしたが、著作権放棄すれば、公で演奏したり、楽譜の出版、音源販売と言った道は閉ざされる。よって、いやでも、自然に消える可能性は高い。パブリック・ドメインになればと言う考えもあるが、このまま発禁となった場合、パブリック・ドメインにすらならない可能性が高い。となると、過去不当に消された作夫品と変わらぬ道を行く可能性がある。そうなることに関しては、個人的には異議ありと言うスタンスである。

私は好きだしこれからも聴くに違いないが、自然と歴史から消えるに違いない。だから私と似たような者たちがシェアしあい…という形で構わない。
えてして、障害者を奇妙に持ち上げるメディアにも一定の非はある。
私自身は、辟易していた。そのエピソードだけでミーハーしている人たちのコメントは、何処まで音楽性を理解しているの?であった。よって、そうしたやりとりは非常に疲れた。もうしたくないと思っている。よって、書き込みの基準を引き上げたと言う経緯がある。

人に対して詐欺を行った作曲家が、歴史上他にもいるため、現時点ではこう考える。

今は新垣氏は、肯定的に見られているが、いずれ逆風が吹くに違いない。
その時が、新垣氏にとって勝負の時。
今日はここまで。