教会音楽に思う

創価学会員同士の方々で、教会音楽を聴いてどう感じるだろうか。
草創期の同志の方々であれば、キリスト教の音楽は哀願の調べというイメージを持っている方が非常に多いと言う認識でいる。
というのも、折伏経典と言った書籍で出てくるワードであるからだ。

そして、私は、教会音楽には大学生になるまで自発的に聴くことがなかった。
私自身が、自発的に初めて聴いた教会音楽は、キリスト教離れした音楽だと言っていいだろう。
初めに聴いたのは、ベートーヴェン ミサ・ソレムニス ニ長調 Op.123である。
演奏は、雑誌の評論家による人気投票では安定の1位を誇るオットー・クレンペラー指揮、フィルハーモニア管弦楽団、同合唱団が演奏するCDである。
おおよそミサ曲らしいミサ曲ではない。理由は、Wikipediaから引用するが、

ただ歌詞に見合った曲をつけたような旧来型のミサ曲ではなく、ミサの言葉の外面的な意味よりも豊かな内容を含む交響曲的なミサ曲

ベートーヴェンのミサ・ソレムニス

という言葉に尽きるだろう。
J.S.バッハとて、ミサの儀式に沿った讃美歌にしか感じないところがある。
グロリアの開幕は、ベートーヴェン「第九」よりも高いテンションで幕を開けるし、クレドは、信仰告白というよりも祈りと決意の歌に感じる。

ベートーヴェン「第九」と比べて、そのメッセージは内向的とも言われるが、キリエ』冒頭には「心より出で−願わくば再び−心に向かうよう」にと記され、『アニュス・デイ』では戦争を暗示する軍楽調の部分や「内と外の平和を願って」とのベートーヴェン自身による指示が書き込まれている。これらは、ベートーヴェンが心の平安と外的な平和を統一して希求する音楽として作曲していたことを示している。この辺りの意味づけは、第九に通じるし、メッテルニヒから要注意人物として危険視されていた実態を鑑みれば、今で言えば世界の愛と平和を歌い上げるロック歌手にも通じる。ベートーヴェンはロックの元祖として名前が挙がる理由は、そうした反抗的なメッセージを音楽で公にしているからに他ならない。なお、ベートーヴェンは、自身の全ての交響曲よりも、ミサ・ソレムニスを高く評価していた。

そして、身内が、モーツァルト レクイエム K.626 カール・ベーム指揮、ヴィーンフィル、ヴィーン国立歌劇場合唱団演奏のCDを手に入れ同時期に聴いている。

怒りの日に見られる激情、そしてそれ以外の静謐な悲嘆・哀惜の対比は、実にモーツァルトらしい。
この曲について書くに辺り、先日亡くなられたクラウディオ・アッバード指揮ルツェルン祝祭管弦楽団スウェーデン放送合唱団演奏、バイエルン放送合唱団演奏を聴いた。理由は、 ラクリモーサ(涙の日)の終わりにアーメンフーガを用いた演奏であり、その中でおそらく最も演奏レベルが高いと判断したため。次いで最晩年カラヤン指揮ヴィーンフィルフィル国立歌劇場合唱団演奏を聴いた理由は、個人的には、身内が持っているベームよりも好きなため。そして冒頭から第7曲 コンフターティスまでを、ランドン版で演奏しているショルティ指揮ヴィーンフィルフィル国立歌劇場合唱団演奏で聴く。かのベームは、初演に用いられたジュースマイヤー版を用いているのは有名。その後、様々な補筆が去れているのであるが、私自身は、そして、ジュースマイヤーの前に、より全体には手を付けるのをやめてしまったが、アイブラー、フライシュタットラーの方が、その該当箇所に関してはジュースマイヤーよりもいい仕事をしていると考えたため、ランドン版を基本的に高く評価し、またラクリモーサの終わりはジュースマイヤー版に配慮しながらもアーメンフーガを用いる。アイブラー、フライシュタットラー、ジュースマイヤー、そして何よりもモーツァルトの様式と違和感が少ない版が一番という考え。よって、思い切った補筆をした盤は嫌いである。とりわけトゥルーズ版は。よって、ジュースマイヤー版は私にとってはベースになっているし、この版は、ラクリモーサを除けば、ランドン版について高い評価を与える。スタンスは、ランドン版を提示した、H.C.ロビンス・ランドンの「モーツァルトの作品を完成させる作業には、学識に優れた20世紀の学者たちよりも、同時代人であるアイブラー、フライシュテットラー、ジュースマイヤーの方が適していると信じる」と近接する。唯一の例外が、ラクリモーサである。個人的な版ベストは、イントロイトゥス【入祭唱】第1曲 レクイエム・エテルナムから第7曲"コンフターティス"まではランドン版、第8曲 ラクリモーサはレヴィン版。それ以降は、ジュースマイヤー版、ランドン版ともに同じため、CDで両版を用いた最良の演奏を選べばいいと言うスタンス。個人的な演奏のベストは、冒頭から第7曲コンフターティスをショルティ指揮、ラクリモーサのみレヴィン版のラウディオ・アッバード指揮ルツェルン祝祭管弦楽団、それ以降を最晩年カラヤン指揮ヴィーンフィルフィルである。
さて、とても叙情的で美しく、哀願の調べの頂点をいく作品の一つであろう。それは、未完のハ短調ミサ曲K.427、ミサ曲 ハ長調『戴冠ミサ』K.317にも言える。ただし、『戴冠ミサ』は、当時のザルツブルク大司教の要求にこたえた結果、演奏時間の短さもさることながら、極めて優雅でロココ様式の典型例になっていることを付け加えたい。

そして、モーツァルトからはもう1曲。
のだめカンタービレ TVスペシャルで使用された原作では登場していない曲では最も良選曲と言う印象があるアヴェ・ヴェルム・コルプス ニ長調、K.618。
たまたま演奏している教会があって、許可を取って取られたと記憶しているが、その記憶は定かではない。モーツァルトが書いた最も美しい音楽の一つ。この曲も、哀願に満ちている。

身内は、すんなり気に入ったようであるが、私の場合は、響きの美しさに感嘆する一方で、すんなりと受け入れなかったと記憶する。小さい頃の刷り込みもここでは関係している。モーツァルト「レクイエム」も同じであった。学生部時代の後輩で、経済難と向き合いながら、ライン、学内で縦横無尽の活躍を死、2年間で3人の折伏を勝ち取り、今も社会人学生部として活躍している方がいる、彼は、ピアニストの卵でもあり、クラシックは比較的好んで聞いていたが、一番好きなクラシックは、モーツァルト「レクイエム」と答えて驚いたこともある。
モーツァルト レクイエムを選曲した印象的な映像としては、シューマッハーが、最初の引退宣言をする1年前の、F-1 モナコ・グランプリ OPを思い出す。

冒頭は、モーツァルト レクイエム冒頭、落日の文字から怒りの日が使われている。そしてスムーズに。冒頭がバロック音楽風にアレンジされてたこの年仕様のT-SQUARE TRUTHのコンボ。サブリミナルすれすれの映像が、脳裏に焼き付く。このOPは歴代OPの中でも人気一位に挙げられている。このOPを作られた方は、予算との折り合いが合わず、この年を最後にフジテレビを去ったと言う。
いつみても扇情的である。





中世からバロック時代の著名なミサ曲から選んだ。
最初が、アルス・ノヴァ期の最も著名な作曲者ギョーム・ド・マシュー「ノートル・ダム・ミサ」からキリエ。ヨハネス・オケゲム「種々の比率によるミサ曲」。そしてJ.S.バッハ ロ短調ミサ曲。J.S.バッハのこのミサ曲は、バッハの最高傑作の一つであり、最近の研究では亡くなる直前に完成した最後の作品であり、集大成ともされている。そして西洋音楽の最高峰でもある。今回選曲したアニュス・デイは、まさに最後に完成させたところであり、そのメロディは、過去の自作の転用である。この曲は最後のアニュス・デイを聴くためにある。それぞれの楽曲は、それぞれに素晴らしい。このJ.S.バッハ ロ短調ミサ曲アニュス・デイ冒頭の響きは、モーツァルト レクイエムの冒頭に近接する。勿論、楽器の使い方、メロディは全く違のだけど。

西洋音楽のスタートはグレゴリウス聖歌と言うけれども、モーツァルトの楽曲で頻出するジュピター音型は、グレゴリウス聖歌からであるし、ラフマニノフの楽曲で頻出する怒りの日もまたしかり。

私は、教会音楽が持っているパッションや、透明感溢れる響き、モーツァルトの楽器使いはとても好きだ。
そしてその上で言えば。それ以外は全く受け入れられないのも確か。
私は、教会音楽を一歩飛び出したものの、歌詞そのものは教会音楽と言った作品が好きだ。


それゆえに、清澄感を好みながらも、路線としては、ブルックナー テ・デウムといったものが好きになる。テ・デウムは、ハヴァ―ガル・ブライアン 交響曲第1番「ゴシック」の後半声楽パートを交えての3楽章がそれだ。ハヴァ―ガル・ヴライアンはオーケストレーション以外はあまり価値があるようには個人的には思えないけれど。

声楽の清澄なハーモニーは、パレストリーナと言ったルネサンス時代の合唱の伝統をしっかりと感じさせるところである。
歌詞が、モテット「来たれ、創造主たる聖霊よ」から採られた、マーラー交響曲第8番も好きだ。

ここまで、西洋キリスト教音楽ばかりで綴ってきたのは、この中の楽曲の中に、佐村河内守 交響曲第1番「現代典礼」の企画書の曲リストになってもいるからだ。直接ビクトリアなどに触れたわけではないのであるが、同時代は一通り網羅していると思う。
そのうち、モーツァルト「レクイエム」は、実際に書かれていた作品になる。
また、作曲者名までカウントするとJ.S.バッハの名前も入る。
その音楽の呪縛を自ら解き放つために聴いてきたと言う訳だ。
哀願を、キーにして振り切りたかった。そのために。