沖浦克治氏にまつわる一連の騒動について3

今回は、沖浦氏の見解が学会教学と乖離している件について考察したいと思います。


私の言葉の至らなさもあり、主に創価仏法研鑚掲示板で交わされた言葉をベースに書く事と致します。


三大秘法・一大秘法の捉え方の違いから書いていきます。


沖浦克治氏が独自教学を取る理由の中に、日蓮正宗の「戒壇の御本尊本懐論」を破折したい気持ちから生まれたものであるという事を述べておきます。


沖浦克治氏の独自教学
1:一大秘法は本門の題目であります。
2:本尊と曼荼羅に、違いはあります。
3:本尊や曼荼羅に、本迹はあります。
4:己心の妙法が本であり、本尊をあらわした曼荼羅は迹です。
5:この世の関係では私が本、大聖人は迹です。
6:御本尊が本で、曼荼羅は迹です。
7:日寛上人は、戒壇様本懐論という間違いを犯したので、日寛教学は邪魔なのです。


学会教学
1:一大秘法は本門の本尊です。
理由は、本門の題目は、修行・実践の側面ですので、一大秘法とすると、誤解や混乱になってしまうからであります。
2:違いはありません。
理由は、久遠元初の根源の法である三大秘法の南無妙法蓮華経曼荼羅に顕し、それを本尊と定めたものであります。
言葉が違う以上、定義の違いがあるだけで、通常学会員は、御本尊と曼荼羅を区別せず、同じものを指します。
3:本尊や曼荼羅に、本迹の関係はありません。
そもそも本迹の関係にはありません。
4:これも本迹の関係ではありません。
理由は、己心の妙法も曼荼羅も御本尊も、まったく同一のものであります。
さらに、己心の妙法に限ってしまうと、三世間のうち衆生世間と国土世間が抜け落ちてしまうことになります。
久遠元初の南無妙法蓮華経は円満具足であり、本有常住の法であります。
5:戒壇本懐論は疑わしいとはいえますが、完全に否定もできません。証明すべきは宗門であります。
また、御本尊に区別がない以上、一閻浮提総与などの意義以外に違いはまったくありません。特定の本尊だけを特別視するのは間違いなのは確かであります。


さらに、日寛上人は法主になったがために、大石寺の正統性を主張された。登座以前は必ずしも戒壇本懐論ではありません。


また、日寛上人によって日蓮仏法が体系化されたのも事実であり、その功績は偉大であります。
三重秘伝・文底秘沈・依義判文等など、その教判はとても有用であります。
しかし、目的が大石寺の正統性にあった以上、世界への飛躍のためにも昇華し止揚していく時がすでに来ていると確信致します。


ここから、いくつか本を読み解いていきます。
まずは、『教学の基礎 仏法理解のため』より

三大秘法とは、3つの最大・最勝にして秘要なる法の意で、「本門の本尊」「本門の戒壇」「本門の題目」の3つをいいます。
これが、日蓮大聖人の出世の本懐の法門であり、教義の根本です。
【『教学の基礎 仏法理解のために(聖教新聞社)P54】 


三大秘法の根本は、「一大秘法」です。
一大秘法とは本門の本尊、すなわち日蓮大聖人が胸中に所持されている久遠元初の南無妙法蓮華経であり、また、それを図顕された曼荼羅本尊です。
【『教学の基礎 仏法理解のために(聖教新聞社)P54-P55】


本門の戒壇とは本門の本尊を安置して信心修行に励む場所をいいます。
【『教学の基礎 仏法理解のために(聖教新聞社)P63】

本門の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えることが本門の題目で(中略)。
【『教学の基礎 仏法理解のために(聖教新聞社)P64】


ここからは、他のいくつかの引用をベースに、私の言葉で書いていきます。


本門の題目とは、自行化他にわたる【唱題行】そのもの、(修)行を指すのであり、【法体】を指すものではないという事です。
法体は、【日蓮大聖人が胸中に所持されている久遠元初の妙法である南無妙法蓮華経】であり、それは即御本尊であり、この御本尊を本門の本尊とも称します。

「本尊」という言葉は、「法」そのものがメインであります。
そして(アンド)曼荼羅(物質・物体・・物理的には)どこまでも、「法」がメインであります。
物質としての「曼荼羅」そのものが「全部」ではないことに注目します。
沖浦克治氏は、「本尊」イコール「曼荼羅・物体・物質」と解釈していると考えられますが、それが違う事がこれで明白であると思います。


信心の実践で、「あなたの胸中の御本尊を全開するんですよ」そのとおりです。
胸中の御本尊(久遠元初の妙法すなわち、南無妙法蓮華経)を成るからです。


大聖人の仏法の立場からは、宇宙は無始無終(永遠)、生命もまた無始無終(永遠)です。
論拠は、『池田大作全集 103 対談集 対談者 チャンドラ・ウィックラマシンゲ』より

池田:仏教の宇宙論では、宇宙は無始無終であると考えております。
   ある日、突然、何かの出来事によりつくられたわけではない。
又、星や宇宙間物質の生成・消滅は当然のことですが、宇宙そのものは、ある日、消え去るというものでもなく、永遠・無限なる存在であるとされています。
【『池田大作全集 103 対談集 対談者 チャンドラ・ウィックラマシンゲ』池田大作 チャンドラ・ウィックラマシンゲ(聖教新聞社)P92】

池田先生が、本尊=曼荼羅のみとされていない事はここから理解する事ができると思います。


池田大作全集 24 観心本尊抄講義より

すなわち、本門の本尊とは、久遠元初自受用報身としての生命それ自体であり、本門の題目は、この無作三身の生命の宝号たる南無妙法蓮華経であります。
すでに挙げた「法華経の題目を以って本尊とすべし」*1
との「本尊問答抄」の御文に照らしても明白であります。

この三大秘法も、究極するところは「観心の本尊」の一大秘法に収まることを知らなければなりません。
池田大作全集 24 観心本尊抄講義(聖教新聞社)P237】

同じく池田大作全集 24 観心本尊抄講義より

ゆえに「観心の本尊」とは、人々の生命の外にあるものではなく、本来、平等に、生命の内にある妙法という尊極の当体につながっていくのであります。


そこでは、あらゆる人にとって、本尊と自分との間に、全く距離がないと説くのであります。
ゆえに、何ものも入り込むすきまはない。
衆生は、ただ朝な夕な、唱題して、自分が妙法の当体であることを覚ればよいのであります。


だが、これを覚るのには、それだけの「智」が必要です。
その「智」を得る方法を法華経は「信」と教えたのであります。
「以信代慧」「以信得入」というのは、それであります。
池田大作全集 24 観心本尊抄講義(聖教新聞社)P236】

一言で述べるならば、宇宙も物質も生命も、すべて「南無妙法蓮華経」これだけ、であります。


また、池田大作全集 24 P142- 生死一大事血脈抄より

したがって、この「久遠実成の釈尊と皆成仏道法華経と我等衆生との三つと言う表現は、一応、(中略)


再応、元意の辺は、久遠元初の自受用報身如来 即 日蓮大聖人 と文底独一本門の大御本尊とそして、私どもの生命がともに 南無妙法蓮華経であり、この三つは「まったく差別はないと、解りて、と拝すべきであります。


これを、差別があると思っていくのは、真実の仏法ではありません。
仏は、素晴らしい特別な存在であるとし、我々衆生は、卑しく 醜い存在であって、とうてい仏になどなれるはずがないと考えるのは 大なる誤りであります。


しかしながら、「この三つ全く差別無しと解りて」といっても、 それを、事実のうえで、「解る」・・理解するというところまで 達していないのが、凡夫であります。


その場合「解りて」とはどういうことかといえば、「以信得入」「以信代慧」と示されるごとく「深く信心をとって」ということになるのであります。


ともかく、御本仏日蓮大聖人の御生命も南無妙法蓮華経であり、その大聖人の御生命をそのまま、「すみにそめながして、かきて候」と仰せられている御本尊も、南無妙法蓮華経である。


そして、もったいないことでありますが、私ども、一人一人の生命もまた、同じ南無妙法蓮華経であると「こう信じて」、南無妙法蓮華経と唱える時、私どもの生命に生死一大事の血脈、すなわち、南無妙法蓮華経の大生命が脈々と湧現してくるのであります。 
池田大作全集 24 生死一大事血脈抄(聖教新聞社)P142】

これらを読んで気づくと思いますが、現実的には、「無明」(具体的には、戦争・今の経済危機・愛別離苦)に苦しむ方が多いのです。
それで創価学会員は、妙法を弘めようとしております。
よって何もしないで、「全く差別無し」は無理なことであります。


一大秘法は「本門の題目」と表現してしまうと、大いなる「誤解」を広げてしまうのであります。


大白蓮華 2008年10月号 P58 池田名誉会長講義 「報恩抄」より

大聖人の弘教の帰結は、広宣流布の法体である、三大秘法の南無妙法蓮華経です。


万人の生命に本来、具わる尊極の生命を一人一人に自覚させるために大聖人己証の尊極の生命をあらわされた「本門の本尊」。



南無妙法蓮華経という尊極の生命の名を自行化他にわたって、唱えていく「本門の題目」。



南無妙法蓮華経への不信を互いに戒め、大法の弘通と立正安国の実現を誓い合う和合僧を築きゆく「本門の戒壇」。
大白蓮華(聖教新聞社) 2008年10月号 P58 池田名誉会長講義「報恩抄」】

大白蓮華 2006年4月号 池田名誉会長講義「一生成仏抄」より

戸田先生は草創の女子部にこう指導された。
「もったいなくも、御本仏と同じ生命を持っている自分自身に誇りをもちなさい。」


日蓮大聖人の仏法は、自分の中に偉大なる仏の生命があると自覚することから出発する。
大白蓮華(聖教新聞社) 2006年4月号 池田名誉会長講義「一生成仏抄」】

創価学会員で、ある程度の体験のある方であれば、「己心の外に法を求める」姿勢であれば、外道に堕してしまう危険性があると、大聖人が本抄で戒められていることであります。


皆さん、このことは認識していることと思います。
「あなたの胸中の御本尊を開くのですよ」などですね。


しかしあくまで、教義上での「本門の本尊」となれば、これまで述べた池田先生の御書講義、『教学の基礎』から引用した通りであります。


曼荼羅はそれを仮に顕したもの」について言えば、いうまでもなく、御本尊は、それ自体偉大であります。


日寛上人著 六巻抄P81より

仮使発心真実ならざる者も、正境に、縁すれば功徳猶多し

【六巻抄 日寛上人(聖教新聞社)P81】

たとえ信心がまだ本物でなくても、正しい対境に縁すればその功徳は絶大であると説かれているのです。


この御本尊の無量無辺の力をさらに大きく広げるのが、学会の正統の信心であります。
学会の信心には、己心の妙法を表す戦いがあり、功徳の実証があります。
この学会に連なれば、大聖人の仰せ通りの正しい信心が、必ず身についていきます。



「仮に顕したもの」について、検証してみます。


おそらく本己心の妙法が本で、本尊をあらわした曼荼羅は迹であるを前提に発言されていると、察することができます。


これは、沖浦さんの誤謬をガンガン破折するスレ - 創価仏法研鑚掲示板113-136を参考としたいと思います。

創価法研掲示板 沖浦さんの誤謬をガンガン破折するスレ113より転載
衆生己心の妙法が本・曼荼羅が迹」
いまだに、主張していますね。本来は破折など不要なほどの、明確な邪義なのですが・・・


【本迹とは】
仏教用語としては、簡単な概念であり、誰でも理解可能でしょう。
1:本地と垂迹 本化と迹化も同じであり、本体と影にも譬えられ、御書には天月と池月の譬えがあります。
2:本門と迹門 法華経の本門と迹門のこと。相対して、本門が優れます。

1と2に共通する概念は、比較相対しての【勝劣】です。 【本勝・迹劣】の関係です。
これ以外に、本迹の定義はありません。


衆生己心の妙法が本・曼荼羅が迹」は、2.でないことは明らかです。
1.にも該当しませんが、いずれであろうとも、本迹の意味に則れば、沖浦説は、「衆生己心の妙法が、曼荼羅よりも優れている」ということになってしまいます。


これは、完全なる邪義です。
生死一大事血脈抄に明解であります。
『久遠実成の釈尊と皆成仏道法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり』
久遠実成の釈尊=御本仏・日蓮大聖人と、皆成仏道法華経=御本尊と、我等衆生との三つ全く差別無し【三つ全く差別無し】です。
勝劣などあろうはずがないでしょう。


創価法研掲示板 沖浦さんの誤謬をガンガン破折するスレ136より転載
(中略)
衆生己心の妙法が本」この前半部分は間違いではない、正しいという人もいます。
【本】とは、【根本】という意味ですから、根本、根底という意味においては、衆生も一念三千の当体です。
そして、御本尊も一念三千の当体です。根本において、まったく違いはありません。


沖浦説が邪義だというのは、衆生曼荼羅を【本迹関係】で捉え、主張していることです。


さらに、【前半部分は正しい】といいつつ、後半の邪義と本迹関係を破折しないのであれば、与同罪にもなってしまいます。


『一乗流布の時は権教有つて敵と成りてまぎらはしくば実教より之を責む可し』(如説修行抄:P501)
紛らわしいときは、実教より、責めるのです。 破折するのです。


創価法研掲示板、沖浦さんの誤謬をガンガン破折するスレ156より転載
本迹も、基本的には【二元論】であって、本とは、本体・本質・根本という概念に相当し、迹とは、仮・影・跡(あと)という概念に相当するでしょう。


私は、通底する概念が、勝劣や優劣であるとしたものであって、本と迹に立て分けたものすべてに勝劣があるわけではありません。
そうした、立て分ける基準に勝劣や優劣の概念を用いると考えるのが妥当だろうと思います。


★これらは、善悪などの二元論を考察するときにも、その立て分ける基準を考えるのと同じでしょう。


そもそも、本迹は、基本的に一つのものに立て分けが行われ、その役割を明確にするためのものでしょう。
法華経であったり、仏であったり、菩薩であったり、一人の人間であったりです。
あなたと私、あれとこれ、などに本迹があるわけでも、本迹の関係にあるわけでもありません。


つまり、『ある一つの事象に対して、その本質を探るために、本と迹に立て分けて、明確化する。』


大聖人の発迹顕本とは、本地垂迹という概念を、大聖人の竜の口の法難に当てはめて捉えました。
そして、それを定義したのは、後世の弟子でしょう。日寛上人が最初か。


私たち凡夫も、仏の生命を開けば、仏の境涯を開けば、発迹顕本したといえるでしょう。
昭和52年当時は、発迹顕本は大聖人に限るのであって、私たち凡夫の発迹顕本を語るのは謗法だと、宗門に叱られましたね。


しかし、定業化できなければ、すぐに別の境涯(命)に移ってしまいますので、その定業化の修行が一生成仏でしょう。


通常、私たちが(お)題目というと、久遠元初の妙法=南無妙法蓮華経=法体と、唱えるお題目=唱題行とを特段区別して使いませんので、誤謬が生じる危険性があります。


PS:11/7にいくつかより見やすい視点を見つけましたので、それを提示致します。

沖浦克治氏のつまずいた原因としては、

1:基本的な仏法用語を、無知・故、誤って使ったことです。
2:先生のスピーチ、御書講義等を、記憶だけで、書きなぐったことです。
3:宗門との「たたかい」において、「戒壇様本懐論」について、氏なりの「見解」があり、その結果、一大秘法が題目との「こじつけ」をすることになった、その理由は正式な一大秘法「本門の本尊」の「本尊」の意味が正確に理解できていなかった。
4:御本仏が、どのような「存在」であるかの「知識」が無いまま
書きなぐったです。
5:更に一番大きな原因は、自分の誤りを素直に謙虚に、認められないということです。


また、ここまで読んで気づいた方がいらっしゃると思いますが「衆生己心の妙法が本・曼荼羅が迹」という言葉は、御本尊の方が、衆生己心の妙法より下という事を意味し、御本尊蔑視と勘違いされる危険を秘めた言葉でもあります。すでにこのblogではその事を違う言葉で表現されておりますが。


教学的には、上記のように明確にと区別されます。
教義の根幹を論じる際には、定義を明確にし、記憶や思い込みだけで論じるのは、全くの論外であります。


なお、日寛上人の教学についての功罪と大御本尊の真偽については、私が実際に読んだ本ではこの2冊が秀逸です。


日蓮正宗の神話

日蓮正宗の神話

日蓮と本尊伝承―大石寺戒壇板本尊の真実

日蓮と本尊伝承―大石寺戒壇板本尊の真実


長くなってしまいましたが、これで教学にまつわる一通りの事が、書けたと思います。


この話に関する指摘は、創価仏法研鑚掲示板の該当スレッドにて、よろしくお願い致します。


沖浦克治氏の一連の騒動で、池田先生の御書講義を自らの己義に利用していたことに初めて気づいたのは、この三大秘法騒動でした。


そして、そのことに気づかせて下さった創価仏法研鑚掲示板の常連および常連以外に教学面で指摘をして下さった方々に、改めて感謝致します。


只今教学力の無さを痛感し、改めて教学の勉強中です。
体験を持って御書を学べなのです!心で読むべしなのです!身体で読むべしなのです!


にほんブログ村に参加しております。「ぽちっ」とヨロシク!
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ

*1:新編 日蓮大聖人御書全集 P365