宇宙的な音

クラシックや瞑想音楽を聴いていると、宇宙的な音、宇宙を感じさせる音と評されたり、作者がそう形容する作品に出会います。


マーラー交響曲第8番は、作曲者自らがそう形容した曲です。そう感じられるのは、大規模なオーケストラと声楽の協演がもたらす、音の圧倒的スケール、そして、ベースのうねりがそう言わしめるのではないかと、思うのです。ブルックナー交響曲第8番も、ユニゾンのファンファーレの力強さ・雄大さ・幻想的な響きからそう聞こえるのでしょう。

ベースのうねりでそう連想させるのは、アンビエントなダンスミュージックでもまれに見られますし、Vantage Questや千億祥也の楽曲(サン・ギューメンラ)、チベット声明にも見られることであり、手法が見えてきた今となっては、その有用性を認めつつも、調和の取れた美という点においては、あまり興味を持ちません。


モーツァルトのジュピターは、軽やかで流れるメロディー、明朗・明快な響き・パルテノン神殿を想起させる典雅で均整・調和のとれ構成で天上の音楽を連想させるから宇宙の調和といったものを感じさせるのでしょう。

シベリウス交響曲第6番の美しさは、パレストリーナの対位法と教会旋法をふんだんに用いた純度と密度が高さから、とても心が洗われるからでしょう。不協和音を聞いていると、平均律の影響が顔をのぞかせますね。
パレストリーナは、近いうちに聴きたいルネサンス期に活躍した作曲家です。


超人ピタゴラスの音楽魔術なる怪しげな本の紹介を対位法を調べている過程で発見いたしました。
臨死体験をした人物がその時に体験した音楽についての記述は、とても興味深かったので、紹介いたします。

そこにはまた不思議な音楽もある。それは周囲から聞こえてくるとともに、私の身内からも湧き上がってきて、ひとつの完全なハーモニーをなす。歌詞のない歌のコーラスが、繊細でしかも躍動感に満ち、文字通り魂を震わせる響きを持つメロディーをつくり出しながら、どこまでも続いていく。そして、この天上の音楽は、この世界にあるすべての魂がその源であり、私もその源のひとつになっているのである。

この本の著者は、そうしたことからこう続けております。

直線的である強烈なリズムは、おそらく存在しないだろう。つまり打楽器はあまり使われていないはずだ。
 そこで主役となるのは、曲線的な弦楽器であると思われる。金管楽器は、弦楽器を支えるかのように柔らかく演奏される。そしてその周囲をたわむれるように、純粋な波形と高周波成分を持つ楽器、すなわちフルートを中心とした木管楽器が、そよ風のような柔和さで響いていることだろう。
 そしてモンローが報告しているように、そこには合唱の歌声が存在する。しかも高周波成分の豊かな女声合唱が優勢を占める。その歌声は、シュタイナーがいうように、母音だけで歌われる。中でも調和を暗示するオと、光明を暗示するアの母音が際立ち、エコーしている。
 音階はすでに述べたように、いかなる場合も不協和音が出ない純正律である。だから、すべての和音が協和して美しく響きわたる。また分散和音すなわちアルペジオ(和音を構成する各音程を、同時ではなく分けて演奏する方法)も響いているだろう。
 もっとも大切な要素がメロディだ。それは急激な高低差のない、曲線を描くような優美なものである。魂を揺さぶるように高貴で美しく、感動的で、神秘的な内容を持っている。メロディこそが魂の中核に訴えかけるものだ。メロディこそが霊的音楽の生命である。
 そしてもうひとつ、霊界の音楽を大きく特徴づけているのは、その対位法の見事さだ。
対位法とは、複数の異なる旋律が同時進行しながらも、全体として調和した音楽を形作る作曲技法のひとつである。
霊界には、この対位法による音楽が鳴り響いているのだ。しかもその旋律は、魂の数だけある。魂の数がどれほどあるかわからないが、膨大な数に昇るだろう。しかもみんな独自の個性を持っている。彼らの個性が旋律になるわけだ。
モンローの体験を再び引用してみよう。彼はこういっていた。“この天上の音楽は、この世界にあるすべての魂がその源であり、私もその源のひとつになっている”と。にもかかわらず、そうしたすべての魂を音源とする霊界の音楽は、全体として調和した、ひとつの美しい音楽となっているのである。いったい何という壮大なシンフォニーであるといえようか!
 さて、以上をまとめてみると、霊的故郷の音楽は、その曲線性や女性優勢のコーラス、すべての旋律を受容する包含性などから、女性的な音楽、あるいは母性的な音楽であるといえそうだ。女性の肉体が曲線的なように、霊的故郷の音楽も曲線的で、そこは魂と音楽の子宮だともいえるだろう。

シュタイナーなどの神秘主義者の言葉は見る必要はありません。臨死体験でみるものはみな共通しているとの記述を見たこともあります。手元にそうしたことを書かれている本が1冊はあったとおもいますのでその本が見つかり次第、論拠として紹介いたします。

本題に戻しますとモーツァルトの音楽、シベリウス交響曲第6番の所々に先ほどの引用を想起させる響きがございます。様々なレビューを見る限りでは、パレストリーナにも同じ傾向が見られます。ベートーヴェンブルックナーJ.S.バッハの曲は、シベリウスモーツァルトほど天国を想起しないように思います。ベートーヴェンの第9の第3楽章は天国をそうきさせるものがあるように思います。


話が少しそれましたが、モーツァルトシベリウスの楽曲は、宇宙の調和を感じさせるものがあります。そして臨死体験をされた方は、そうしたものをより昇華されたものを聴いたと感じているとの記述があることは、先ほど引用したとおりです。


ここからはそうした幻想を壊すエピソードを紹介いたします。

宗教的な神秘体験が側頭葉で起こっていることは、既に多くの脳科学本で指摘されている。てんかん患者と似た状態らしい。LSDを服用すると同様の体験ができるとも言われている。

われわれは、宗教的な神秘体験、儀式、脳科学についての膨大なデータの山をふるいにかけて、重要なものだけを選び出した。パズルの要領でこれらのピースを組み合わせているうちに、徐々に意味のあるパターンが見えてきて、やがて、一つの仮説が形成された。それが、「宗教的な神秘体験は、その最も深い部分において、ヒトの生物学的構造を密接に関係している」という仮説だった。別の言い方をするなら、「ヒトがスピリチュアリティーを追求せずにいられないのは、生物学的にそのような構造になっているからではないか」ということだ。



【『脳はいかにして〈神〉を見るか 宗教体験のブレイン・サイエンス』アンドリュー・ニューバーグ、ユージーン・ダギリ、ヴィンス・ロース/茂木健一郎訳(PHP研究所、2003年)】

 つまり、「脳がそのような仕組みになっている」ってことだ。ってこたあ、脳そのものが神秘的と言わざるを得ない。脳は“物語としての神話”を求める。起承転結の「転」には不思議な展開が不可欠だ。モチーフは「奇蹟的な逆転」だ。

脳は神秘を好む/『脳はいかにして〈神〉を見るか 宗教体験のブレイン・サイエンス』アンドリュー・ニューバーグ、ユージーン・ダギリ、ヴィンス・ロース - 古本屋の殴り書き(書評と雑文)

補足として、トランスパーソナル心理療法で登場するホロトロピック・ブレスワークは、LSDのような薬物に頼らずに人を変性意識状態へと導くための方法として開発されたものです。ホロトロピック・ブレスワークを開発したスタニスラフ・グロフは、LSDを用いて変性意識状態を調べていた人物であり、このブレスワークも、その妻が学んでいたヨーガの呼吸法に起源があります。そして、古来より、悟りや神の啓示などを体験した宗教家は変性意識の体験者であると言われております。

しかし、脳機能学者の立場からは、物理環境と情報環境の差はまったくありません。環境は最初から情報だからです。先ほども言ったように、眼で見て耳で聴いて鼻で嗅ぎ、舌で味わい、手で触るという、すべてが脳で認識する情報です。物理的なものか情報なのかを区別することに意味はありません。

 二つのことを事実として説明すればわかりやすいと思いますが、まずひとつはドーパミンをはじめとするありとあらゆる脳内伝達物質が、脳が壊れるときに大量に放出されます。ですからまず、気持ちが良い。脳幹の中心の中脳のところ、VTA領域からいくつかの経路が伸びていて、脳幹の中のドーパミン細胞からドーパミンが大量に出ます。要するに、臨死体験のときは超大量の脳内伝達物質が出て、凄く気持ちが良い体感をする。同時にありとあらゆる幻視・幻聴・幻覚が起こります。

 もうひとつは、時間が無限に長くなっていきます。時間感覚が変わっていくわけです。たとえば走馬灯のように自分の人生の歴史を見るとか言いますが、それはあたりまえのことで、脳内の神経細胞が壊れるにあたってとてつもない脳内伝達物質が放出されますから、最後の最後に脳が超活性化されるのではないかと思います。線香花火の最後の一瞬のようなものです。すると、たくさんの記憶を同時に見る。脳は元々超並列的な計算機なのです。我々の脳はふだん生きているときは凄くシリアルに(ひとつずつ順を追って)認識しますが、つまり、ひとつのことを認識しているときは他を認識できません。それが臨死体験のときは、同時に全部認識するわけです。走馬灯のように一生を経験するというのは、一生をシリアルに経験しているのではなく、短い間に一生の体験を全部同時に認識するわけです。内省的には一生を全部ゆっくり体験したかのように感じています。時間の感覚がどんどん変わっていくからです。生という状態から限りなく死に近づいていく、死という接点に向かって永遠に近づき続ける接線のようなものです。死んでいく人にとって、体感としての時間はとてつもなく長くなっていきますから、もしかすると死は永遠にやってきてないかもしれません。

『スピリチュアリズム』苫米地英人 - 創価王道

これは、超人ピタゴラスの音楽魔術での主張の前提条件を壊しております。なぜなら臨死体験というのは、人が亡くなり脳が破壊される寸前に見る光景とみることができます。よって、臨死体験は、ドーパミンをはじめとするありとあらゆる脳内伝達物質が、脳が壊れるときに大量に放出されることによって起こる幻覚とみることが可能であるからです。現代は、ネットで自分の好きな世界だけ見ていても問題はなく、それゆえにメガヒットといったこともなく、思想の共有もしにくい世界です。またこれが理想の美・究極の美といったものを定義付けが、人の数だけ全く異なると言うことで、美学も何の意味をなさないものとなっていることもまた一つの事実です。


それでも、時を経て今でも語り継がれる音楽は、人を高貴にさせ、安らぎや勇気など様々なものを今でも与え続けていることもまた事実であるわけです。何度も書いたので詳細は省きますが、少なくとも私の理想とする美しさは、変わりません。今は、静かに吸収し語るだけにして、感性と知性を磨き、社会で実証を示し、人間性を豊かにすることに集中し、前段階をすべて終えたら、文化・芸術を発信しよう。


こうして、コミュニケーション能力の無さを克服するための、音楽との対話は続くのでした。

今日は、ベートーヴェン弦楽四重奏第13番とベートーヴェンの第9の第3楽章で。

Beethoven Quartet no.13 op.130 mov.5 cavatina



Beethoven: Symphony No. 9, Adagio molto e cantabile (Part 1 of 2)



Beethoven: Symphony No. 9, Adagio molto e cantabile (Part 2 of 2)




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