Schoenberg Gurre-Lieder と Mahlar Sinfonie NR.8の共通点、相違点

共通点として、
規模があまりにも大きいこと。マーラー交響曲第8番は、5管編成で最低400-500名、初演1030名(初演の宣伝用ポスターに選任の交響曲とPRされたが、マーラー自身はこの呼び名を嫌った、しかい初演千人越えで文字通りの曲となった)、対するシェ−ンベルクのグレの歌は7管編成で初演750名(実際は、これより少なくても演奏可能)。
マーラーシェーンベルクも対位法の大家。共に音楽的特質の原理と基準としてポリフォニー(異なるメロディを重ねる)をすえ、書法と様式の全ての問題を解くための万能薬とした。変奏の達人。おそらく、その独創性は、シェ−ンベルクの方が上。晩年の十二音技法{1オクターブ12の音を全て均等に使い、メロディのパターンをつくる、これは、調とメロディの崩壊させ、非常に不気味な響きがする、よく言えば不協和音(暗い響き)の解放}は、対位法から生まれているため。逆を言えば、マーラーの場合、独創性には幾分欠けるとも言える。
さらに、2人とも一見伝統とは決裂しているように見える点。しかし、共に伝統に対しては強い敬虔さを払っている点も共通。J.S.バッハを敬愛。


グレの歌については曲全体の構成やテーマが、マーラーの『嘆きの歌』の影響を受けていること、共にカンタータ・オラトリオともいえる曲であること、ワーグナーR.シュトラウスの影響を受けたオーケストレーションで、半音階のため、似た響きであることが、共通点。


また、この当時は、至高の作品(大規模・長時間の大作)が非常にクローズアップされていたという背景が、こうした大作を生んだ土壌としてあること。


ここからは、違いについて。
オーケストレーションについては、グレの歌マーラー交響曲第8番と大きく異なる点は、ラヴェルの影響があることと、またマーラーは、個々の楽器の響きを浮き出させることを目指していたのに対して、シェーンベルクは、一つの同じ和音に、そのたびごとに異なる音色を与えることによって、一つの和音だけで完全に一つの楽曲を構成するアプローチを取った。
マーラーは、ベートーヴェンシューベルトの後継者(一見ブルックナーの後継者に見えるものの)ブラームスワーグナーの手法を尊敬(ブラームスシェーンベルクが顕著、全体的にはブラームスは好きではなかったようだ)
マーラーは、シェーンベルク(ベートーヴェンの英雄をひな形にしていた)と違い、ベートーヴェンには批判的な面があったこと。


共通点・相違点は、ここまでとして、ここからは、以前よりも深くマーラーの第8について、深く掘り下げいく。
マーラーがこの交響曲で表現しようとしたことは、「宇宙が震え鳴り響くさま、運行する惑星や太陽の音、偉大な歓喜と栄光の讃歌」であることは、書簡からいえるでしょう。
ブルックナー/マーラー事典、グスタフ・マーラー失われた無限を求めてを読んで、要約したことを書いていく。
そのために、具体的にしたこととして、すべての形式・様式を統合し、書法の融合を目指した。
第1部は、ポリフォニーの総結、J.S.バッハへの讃辞。第2部は、すべての形式・様式を統合、こちらの方が和声的。そこには、15世紀のフランドルのポリフォニー音楽の作曲家たちからロマン派までの全てのジャンル・形式・手法・様式を招集し、統合している。マーラーは、交響曲がオペラの前座から単独の道を歩み独立していく中で、矮小化したことに対して、シンフォニーが元々持っていた豊かな内包(シュポーニア:ギリシャ語で響き合う、世界は1つの調和は全体であって、耳では聴くことのできないハーモニーを奏でているのである)を回復しようとした。
第1楽章全体は形式的には基本に則った交響曲的なものであると同時に完全な歌。「真の交響曲」においては、すべての中で、最も美しい楽器が決定的な役割を果たすことになる。それはただ音響としての使われるのではない。なぜなら人間の声はというものは詩的な思想を伝達するからだ。

交響曲は世界のあらゆるものを包含しなければならない」を文字通り具現化した曲であり、それがロマン派精神そのものであること。ベートーヴェンのように、古典的派様式とロマン派様式の超克ということは、マーラーにはなかった。あまりにも長すぎることが、この曲の悪い点の1つ。交響曲の要素を凝縮し、簡潔・明晰にすることは、後にその言葉を直に聴いたシベリウスが実現していく。


なにはともあれ、あらゆる要素の融合を果たしたことは素晴らしい。その結晶が、あのフィナーレの合奏なのではないだろうか。あとは、それをいかに簡潔に無駄な音符1つ無く凝縮していくか。



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