音楽についての考察

このテーマにいては、過去1番書いてきたテーマである、
最近、新しく気付くことも多い。本題からは、脱線していることと思う。
それを承知で綴りたい。
ここで、思索する過程は、未来へつなげていくものだから、と思うのだ。

発見もあったが、要出典だらけの記事に苦笑しながら見ていた記事
新ロマン主義音楽 wikipedia
アルヴォ・ペルト wikipedia
まず、両方を見なければ、ティンティナブリの様式のすべてがわからない点。
どんなスタイルか
1.メロディーに三和音のメロディーを付加
2.非装飾音符の多用
2.単純なリズム。リズムは常に一定。
また事典もじっくり見ようと思う。一言で書いていある文章を見た記憶がない。

前者の総括は、見方は面白いが、根拠が要出典だらけという説明としては最低なものになっている。投稿型ではよくある話。
実際に前衛の停滞以降、メロディ・ハーモニーの復興は著しい、シュトックハウゼンルトスワフスキもそうした傾向はあるし、グレツキ、アルヴォ・ペルトはその最右翼だろう。厳密に言えば、前衛音楽は、新しい音響を作り出す以外に意味はなくなったといっていのかもしれない。こう明言しているのは、松平頼暁氏がそうだ。氏のピッチ・インターヴァル技法は、作曲家自らが聞きたい音楽のための理論の一つの理想ではないだろうか。個人的にはモーツァルトベートーヴェンJ.S.バッハもカオスを音楽にして表わしてきたと言っていいと思う。
具体的には、ドン・ジョバンニのデーモニッシュなフレーズ、大フーガのフーガ主題、六声のリチュルカーレ、フーガの技法といった調べがそれである。音楽によるカオスはこれでいい気もしてくる。
ファーニホウが述べた、「テンポ感が確定していれば、テクスチャーは全て聞き取れる」は間違いない。少なくとも音色の移ろいゆく様はこれで少なくとも理解できる。

最大の謎は、これらの様々な傾向をもつ音楽を「ポスト・フェストゥム」という形容で括るのかである。

この答えは個人的な考えになってしまうのだが、

これは幾多の研究者の論文も明らかにしてくれない。

つまり誰も導き出せないのだ。大衆音楽でもそうだが、ある意味何でもありで、世界の多極化の極限としての無極化と同じように、音楽でもあまりにも多極化しすぎて無極化して、流行り廃りはあっても一つの大きな潮流と言えるものがなくなってきているのだろう。


微小リズム、純正律的な16分音音階的な主題を用いた、古典的な楽章構成をした、表現主義バロック音楽。それは、ガブリオレ・フォーレが述べた、「存在しないものへの願望は、おそらく音楽の領域に属するものなのだろう」「私にとって芸術、とりわけ音楽とは、可能な限り人間をいまある現実から引き上げてくれるものなのだ」を満たすものに違いない。