佐村河内守氏関連で思うこと。

スパムコメントとして通知はしなかった。批判的なコメントが5月の中ごろに来ていた。ステハンと思いながらも最古参のファンであろうとHNから推察することができた。多分、学会アンチだろうなという文面。
これに反論を書けば、同志の方にファンがいることは確認しているいるし、「たたイマ」を見損ねた時の情報提供は、全員学会同志の方から頂いた。
普段そうならなかったのは、コチラの振る舞いにも原因があることは否定しない。
1.時と場合に合わせて文体は変えているのだけど、基本的に記事での文章は、上から目線とも取れるような「だ、である」文体であること。
2.文章に悪意を感じると書いたと記憶しているのだけど。具体的には。そう思われるところがあるとしたら、胡散臭いと言った輩の文章を挙げたり、調性音楽一辺倒の言い分に対してあえて否定的な文章を書いたこと以外思い浮かばない。
私自身は、調性音楽だから時代遅れ、聴衆の理解を越えているからいわゆる前衛音楽はいけないと言った意見に対して、共に否定してきた。
そういう人間には、調性音楽の枠組みに則りながらも、非調性音楽を取り込んだ弦楽四重奏曲第4番辺りのバルトークすら否定するのか。調性的なクラスターを用いた一時期のグレツキルトスワフスキ吉松隆を否定するのか。トーン・クラスターを独自に展開した、ショスタコーヴィチ 交響曲第14番のエンドを否定するのか。セリー音楽でも、恐ろしくメロディアスでキャッチ―なショスタコーヴィチ 交響曲第14番 「死者の歌」第5楽章「心して」、ダッラピッコラのセリー音楽すらも、セリーを用いたという理由だけで頭ごなしで否定するのか、そういう手合いの愚か者にしか見えない。
調性と非調性の間を行きかう音楽を否定するのであれば、これはこれで格下の映画音楽で否定して来そうであるが、ジョン・ウィリアムズ未知との遭遇」、オペラであればコルンゴルト「ヘリアーネの奇跡」も否定するのであろうか。前衛音楽の語法を、バロック風対位法によって、調性音楽と対比させたシュニトケ(シニートケ)の音楽を否定するのであろうか。
映像音楽家上りと言う目で見る偏見も嫌いだ。鬼武者RiSiNG SUNの形式は、拡張されたソナタ形式そのものである。第1楽章は、それ自体がソナタ形式で作られたことを、聴く者はあまりにも知らない。知らないで楽しめる作品であることは、間違いないのだけど。
現代に生きているのなら、痛切で厳しい音が出なければならないと言う考えも芸術音楽を縛る偏見であろう。
それが、大衆音楽を生み出した土台に、3S政策があったとしても。
そう考えると、シュニトケが述べたこの言葉、まさに至言だと思う。

「私の生涯の目標は、芸術音楽と軽音楽の統一なのです。そうしたら、たとえ私の首が折れてしまうとしても」

シュニトケ - Wikipedia


氏が前衛音楽と言った作品から影響を感じるのは、バルトークが後年していたような調性音楽で書いている節があること。戦後の音楽で聴くようなトリルが多用されていること。アラン・ペッテションのような三全音の使い方に尽きると言う印象。
それ以外は、ストラヴィンスキーメシアンの楽器の使い方に影響を受けながらも、主題労作の様は、ベートーヴェン 交響曲第5番に近接。レーガーに負けじと劣らずポリフォニック。そうした形式美と並んで、第2楽章で奏でらえる木管・ホルン・トロンボーンで奏でられるコラール、結尾の天昇コラールと雛型はあれ、メロディもいい。鬼武者 RiSiNG0SUNの緻密さのオーケストレーションは、iQ180と言わしめるに相応しい。

今後、氏の音楽について書く時は、よりクローズなスタイルをとると思う。
ファン、アンチ、傍観者、未だ知らぬもの、各々の考えも見えてきた。より、クローズに書くべき時は来た。

最後に、この曲で締めようと思う。
書いていて初めて知った。より表現主義的にしたレーガーと言った感じの作風のエミール・ボーンケのピアノ協奏曲。
ピアノの超絶技巧を聴いているとラフマニノフ的。響きを聴いていると、シェーンベルク室内交響曲第1番風。ピアノとオーケストラが競いあう協奏曲とという趣。この作曲者は、妻と友人がユダヤ系と言うだけで、歴史にほぼ消されてしまった。ブッシュ弦楽四重奏団ヴィオラ奏者も務めたと言う。
私は、なんだかんだといってもこういう移ろいの作品がつくづく好きなのだと思う。