Alfred Garyevich Schnittke


合奏協奏曲第1番。3度・6度といった協和音程や、協和音のアルペッジョが、十二音音列の中に使われている。ヴェーベルンの弟子から、十二音技法を学んだとのことだが、この調性的な十二音音列の作り方は、ショスタコーヴィチの影響があるように思える。ほとんどの楽曲素材が映画音楽の転用であり、シュニトケの作曲様式の発展において映画音楽の影響力が歴然と示されている。
この曲が作られたのは、1977年。グレツキ 交響曲第3番「悲しみの歌の交響曲」の一年後に完成した。この曲は、2人のソロ・ヴァイオリン、打楽器のような音色を奏でるプリペアド・ピアノチェンバロ、そして弦五部からなる。

解説は、鎌倉スイス日記が非常に良かったので、以下引用。

ショスタコーヴィチの影響下から出発し、十二音とそこへの決別を経て調性の採用へと向かっていったこの作品は、二十世紀の無調主義の壮大な実験を彼なりに総括したものと、私には映る。
この合奏協奏曲第一番はそうした彼の軌跡の中のマイルストーン的存在である。
十二音主義は調性の持つ多くの対比、変化を体現することはできない。そこから彼の古い音楽、即ち調性音楽への再接近が始まったのではないか。

「俗悪で陳腐な実用音楽」(作曲者自身の言葉)という要素が新たにバロックの形式に乗って生まれている。微分音やケージなどが開拓した音のパレットを使いながら、一見古風な形式に収束していっている。
多様式性という言葉はシュニトケが出てきて一般的になった。第二楽章のトッカータにはヴィヴァルディが出てきたり・・・。音楽のパッチワークであり、この多様式性は彼によって開拓された分野である。
ソリスト達の繰り広げる名人芸と弦オケの対比は峻烈を極め、第五楽章で一切が破壊されるのだ。崩壊ではない。意志ある破壊である。調性の持つ遠近感と不協和が対立して曲がはじまるが、時折挟まれるチェンバロのソロが不気味で、やがてそれらは崩れ去る一点を目指して走り抜けていく。タンゴのエピソードが挟まれて「俗悪で陳腐な実用音楽」という概念も破壊され、苦悩と悪夢もまた・・・。

シュニトケ 合奏協奏曲 第1番 他(特薦) 鎌倉スイス日記


プリペアド・ピアノが活躍する第一楽章は、そのまま前衛音楽的な印象を与えるのだけど、メロディは意外と聴きやすいと言う印象。
第2楽章は、鎌倉スイス日記主催者であるSchweizer_musik氏の述べるとおり、ヴィヴァルディ風の音楽が、非常に半音階で進行していくような音楽だ。
フィナーレは、ショスタコーヴィチ 交響曲第14番のエンドのような、トーン・クラスターも出てくる。ストリングスとプリペアド・ピアノのせめぎ合いがもたらす不協和音は強烈だ。こういう色彩感は、個人的には、とても好きである。低弦部の執拗なオスティナートは、ストラヴィンスキーの影響か。この時代になると、コルンゴルトクラスの対比が当たり前なのだなという印象。


晩年は、多様式の外面的な部分の多くを切り捨て、より内面的で打ち沈んだ調子に閉じこもるようになる。この交響曲第8番は、そんな作品の一つ。典型的なネオ・ロマン主義の音楽に聴こえる。クラスター風の響きも、ここではすべて調的だ。