佐村河内守 プロデュース 新垣隆作品から得た収穫

この作品を書きつづった方のリアクションを見ていると、何も聞く気に慣れなかったという方が多かった。
またさまよえるクラヲタ人のように、大好きな指揮者が亡くなったショックなどが重なり苦悶された方も数知れずいたに違いない。
私の周りでは、hesherさんが1番あっさり立ち直った印象だ。
私自身は、どうであったか。
新垣氏の会見前は、かなり錯綜していた。もちろんその後は、佐村河内氏は、反社会性パーソナリティー障害を持っていて、そこからくる虚言癖、書いていた新垣隆氏をさしおいての自己顕示欲に、自身を含めて誰人をも巻き込んだと言う印象がある。それが確定した時点で、錯綜は消えた。

あとは、フラットに見えるために、虚飾に満ちたエピソードから解き放つことであった。
改めて、企画書に書かれていた大本の作品を聴いていたのはその為である。
実は、これ自体が収穫であった。
おかげで、セザール・フランクのヴァイオリン・ソナタや、ラフマニノフの作品。ベートーヴェン ピアノ・ソナタ数作、今となっては興味が持てないがペンギュラムやドアーズといったアーティストを聴いたと言っていい。
視野を広げるのに一役買ってくれたのだ。
虚飾なしに聴いてみると、やはり破たんなく、ポストモダニズムの極北を行く、引用音楽の極致ぶりに学ぶことは多い。
ただ、それだけだ。
私は被害者と言うよりも、加害者といっていい。人と作品を切り分けて好むのは良いとして、人柄に関して精査をしていかなければならないと思う。その上で言えば、非言語的コミュニケーションが極めて不得手である私が、どこまで探知できるかはわからない。その上で言えば、日蓮大聖人、日興上人、創価三代の会長、釈尊ゲーテ、そしてシェイクスピアは、見破れたのではないだろうかと思う。私の場合、最初の一報が流れた際、その資料から新垣氏が書いていたと断定することもできたはずである。このことに関しては、日々、傷から立ち直ることと、懺悔を祈っている。

虚飾に満ちた自伝を乱読したこと、コンサートに二度運び、対面したことも良い思い出である。
その上で、あまたの人を欺いたことは裁かれるべきであるし、出版前に著作権方軌となれば、パブリックドメインにすらならずに、消える可能性があるわけで、そうならないことを願ってやまない。
これで、振り切って前に進んでいける。

第2に、色々な作品を改めて聞く中で、モーツァルト k.452の特質をより理解することができたし、弦楽五重奏曲第3番の意義をより深くできることが出来た。そして、最晩年の作品への萌芽が、18歳にはあったことも知ることができた。