前衛音楽・実験音楽

トータル・セリエリズムと偶然性の音楽というアプローチがあります。
トータル・セリエリズムは、以下のやり方でつくられます。

音高:ソナタ形式の主題にあたる十二音列を作成する。調性を感じさせてはいけないので隣同士の音程はトリトヌス(増4度や減5度)や半音音程(短二度や長七度)を主に並べられる。三度など調性を感じさせる物は原則禁止される。それぞれの音は1回しか使えない。実際に曲に使用する場合は調性を感じさせないようにすべて跳躍進行にする。シェーンベルクの十二音技法は主としてここまでで終わっている。
音長:セリエル音楽の場合は1から12までそれぞれ違った音の長さの違う音符を用意する。ウェーベルン時代はトータル・セリエリズムにはなっていないが、できるだけ繰り返しの少ない、図形的リズムやコントラスト・リズムで音の長さの秩序化を図る(参照:ウェーベルン作曲の「協奏曲」作品24)。
強弱:原則として繰り返しを避ける。セリエル音楽の場合は1から12までそれぞれ違った音の強弱を準備する。例えば(pppp, ppp, pp, p, mp, mf, f, sf, ff, ffz, fff, ffff)等である。ウェーベルン時代も強弱の繰り返しは極力避けるがディミヌエンドやクレッシェンドなどの大雑把な強弱法がまだ多い。
音色:その都度楽器を頻繁に替える。1回使った楽器は原則1つの音列が終わりまで使えない。セリエル音楽の場合は1から12までそれぞれ違った楽器を準備するのが理想的である。


【十二音技法 - Wikipedia】より抜粋

J・Sバッハやベートーヴェンが築き上げた論理性を求めて、なおかつ自由自在に不協和音を用いるために生まれた作曲法だと思いますが、あまりにも機械的であり、パターンが限定されすぎるために似たようなテイストの曲しか作れません。
平均律において半音より狭い音程である微分音や、雑音を最大限に活用したり、トーン・クラスターが用いられたり、特殊奏法による音色の発展と拡大、複雑なリズムポリフォニーを使った音価の発展、などセイエリ的な発想の曲があったものの、こうした作曲技法は、人間の耳の限界に達したとの考えを耳にしますが、同意見です。同じような響きの曲しか生まれないのですから。不協和音ばかりで、とても陰鬱な印象を与え響きが好きではありません。そして人にとっては、究めて演奏しにくいことです。電子音楽にしても、同じ事が言えます。電子音楽は、テクノ・トランス・ハウスなどのダンスミュージックなどや今のポップスに人から受け入れられる使い方をしている気がします。


偶然性の音楽・不確定性の音楽は、これから紹介するアプローチでつくられています。

「作曲−演奏−聴取」という音楽の伝達過程の3要素のうちの1つないし複数に、偶然が入り込むための「仕掛け」を施す。例えば、作曲の時にコインを投げて音を決めてゆく、紙のしみを音符に見立てて音を選んでゆく、五線譜ではない図形楽譜を用いて奏者の即興に任せる、というようなものである。

面白いことに、この2つのアプローチで作られた曲は、似た響きをするのです。
まるで、過保護に子どもを保護するのと、ニグレクトなど放置して育てる、このまったく異なる2つのやり方が、子どもを同じように歪ませる様に似ています。

この偶然性の音楽には極限形が2曲あります。
偶然性の音楽創始者のジョン・ケージの4'33"と0'00"です。

4'33"については、

楽章を通して休止することを示すtacet(オーケストラにおいて、特定の楽器のパート譜に使用されるのが普通である)が全楽章にわたって指示されているので、演奏者は舞台に出場し、楽章の区切りを示すこと以外は楽器とともに何もせずに過ごし、一定の時間が経過したら退場するのである。
楽曲は、上記のように3つの楽章から成っている。それぞれの楽章の所要時間は、演奏者の自由である。その楽器でさえ、ピアノでもヴァイオリンでもサクソフォーンの重奏でもオーケストラでも何でもよい。


この曲は、いわゆる「無」を聴くものというよりも、演奏会場内外のさまざまな雑音、すなわち、鳥の声、木々の揺れる音、会場のざわめきなどを聴くものとされている。


ケージは無音を体験しようとして入った場所で、なお音を聴いたことに強い印象を受けた。『私が死ぬまで音があるだろう。それらの音は私の死後も続くだろう。だから音楽の将来を恐れる必要はない。』(Cage, John (1961). Silence. Hanover, N.H.: Wesleyan University Press.)無音の不可能性をみたという認識が、後の「4分33秒」へ彼を導いた。


有名な「4分33秒」は、コンサート会場が一種の権力となっている現状に対しての異議申し立てであると同時に(同じことがデュシャンの泉にもいえる。コンサート会場や美術館にて展示や演奏されれば何であれ作品になってしまうのか、といった問いかけである。結果的にも『それでも作品になりうる』という理解をも生んでしまったともいえる。)、観客自身が発する音、ホールの内外から聞こえる音などに聴衆の意識を向けさせる意図があり、偶然性の音楽というケージの実践・思想全体の中に位置づけて初めて意味を持つものであるが

ジョン・ケージ - Wikipedia】と【4分33病 - Wikipedia】より抜粋


昨日・一昨日紹介した後に紹介したマーラーの死後、音楽について様々な実験が行われ、不協和音を今までのルールに縛られないようにするために無調音楽が生まれ、それを組織化するために生まれた十二音技法が生まれ、トータル・セリエリズムが生まれ、そのアンチテーゼとして偶然性の音楽が生まれたという経緯があります。


4'33"についていえば、音楽の定義や存在意義について突きつけているようにも思えます。
音楽の限界を示した、いわば音楽版不完全性定理ともいえ、言語学ででてきた言葉の恣意性にも通じるように考えます。


結果的に前衛音楽は、その響きの心地悪さなど聴く人のことを考えていなかったために衰退し、新ロマン主義音楽(聞き手の存在を自覚し、「聴かせる」ことより「聞かれる」ことを前提とした、感覚的で記憶しやすい、親密な作品づくりを目指している)、多様性の音楽(複数のジャンルや技法を使うこと)といった方向に転換されているようです。これは、聴き手にとって嬉しい変化です。メロディーやハーモニーの良さを尊重しながら、他の音楽も尊重しながら、新たな地平を開拓していく点においてはです。


前衛音楽で凄いと感じたのは、ルトスワフスキ交響曲第2番において偶然性の音楽の作曲技法と明快で率直な弁証法的思考が見事に結びついたことでしょう。響きは、前衛音楽的であり好きにはなれませんでしたが、まったく相反する2つのやり方を統合したことに凄さを覚えます。その作風は、明快・明晰・簡潔とのことであり、なるほどと納得致します。
個性的な作曲法としてましては、「ad-lib動律」があげられます。

「ad-lib動律」とは、各パートが「それぞれのアゴーギクを保ちつつ」、「ほぼそのように」演奏される為に、指揮者は入りの瞬間だけをキューで示し、後の音楽の進行はそれぞれの奏者ごとに与えられる異なったテンポやフレーズ、繰り返しに任される。このことにより、各パートの旋律の様相がクリアに浮かび上がる利点を持つために、不確定性全盛の時代の中で最も成功したと言われている。ただし、このテクニックでは、セクションが終わるまで動律が止まらない為に、衝撃音か合図音で打ち切らなければ次に進めないなどのいくつかの問題点を生んでいた。しかし、1970年代以降の諸作品でも修正を行いながらこのテクニックは手放さなかった。このad-libセクションと、通常の小節線によるセクションを往復することを、初期には縄状形式、後に呼び方を改め「チェーン形式」と呼んだ。

次回は、この曲とはまったく正反対なハイドンモーツァルト交響曲を取り上げます。



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